白虎隊自刃の真実を知ってほしい。飯盛山行ってきた
こんにちは☺
この記事は、先日行ってきた福島日帰り旅行の続きです。
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歩く歩道
今回の日帰り旅行のシメは飯盛山です。
特に何も考えずこの順に行ったのですが、我ながらいい感じにまとまってると思います。
そして飯盛山と言えば!
あの長い階段ですよね。
飯盛山は、「山」と付いている通り山なので、段数がけっこうあって急な階段を登らないといけないんです。
この階段を登るのがキツイという方は、歩く歩道(エスカレーターの段差がない版みたいなやつ)を利用することも出来るんですが、
なんとこの歩く歩道は有料。
お金がない貧乏学生の私はもちろん自力で登りました。
観光地の賢さを横目に、勢いだけで登りきる。
お金がないんだからしょうがない!こんなところで贅沢してられない!
日頃の運動不足がたたってヒザが悲鳴をあげていましたが、今となってはこれも良い思い出です。
白虎隊の自刃について
登りきった先には、飯盛山で自刃された白虎隊士たちのお墓があります。
なんだか空気が静謐として、厳かな雰囲気でした。
静謐(せいひつ)という言葉を使いたかっただけです。
この白虎隊の自刃についてなんですが、
今でもまだ「城下町が燃えているのを、お城が燃えていると勘違いして自刃した」
と思われている方が多いかもしれないので、
この場を借りてちょっと説明させていただきたいと思います。
(ちなみに、1986年に放送された「白虎隊」というドラマでは、白虎隊の自刃がそのまま上記のような描かれ方をしています。
ですがこれはあくまで映像作品、ドラマだと割り切って観れば非常に優れた作品です。
戊辰戦争のことも理解できるので、興味がある方は見るべき作品だと思います。
坂上忍がめっちゃ若いです。)
話が逸れました。
まず、白虎隊とひとくちに言ってもいくつかの部隊に分かれていまして、
自刃を遂げた隊士たちが所属していたのは、白虎隊士中二番隊という部隊です。
この士中二番隊は16~17歳の少年たち44名で編成されておりました。
会津戦争に出陣した士中二番隊のうち17名は、軍議に出かけた隊長とはぐれ、指揮官を失ってしまいました。
お城へと戻る途中、士中二番隊が通った戸ノ口堰(とのくちせき)。
真っ暗な洞穴をくぐり抜け、たどり着いたのは飯盛山。
辿り着いた飯盛山で、鶴ヶ城の天守を覆い隠す、激しい炎と濛々たる黒煙を目にする。その時、隊士の間では城に戻り戦うか、敵陣に斬り込み一人でも多く道連れにするか、激論が交わされた。結果、彼らが選んだのは自刃。捕らえられて生き恥をさらすより潔く死を選ぶ、という結論だった。ある者は腹を割き、ある者は喉に刃を突き立てる
白虎隊士たちは、お城が燃えていないことは分かっていました。
それでも自刃を選んだのは、武士道を貫くため。
「恥」を重んじて見事自刃を遂げたのです。
NHK大河ドラマ「八重の桜」ではこの描写がしっかりされていて、
白虎隊の自刃をただの悲劇として扱っていないところがとても良かったです。
先ほどご紹介したドラマ「白虎隊」と合わせてこちらもご覧になるといいと思います。
白虎隊の自刃が描かれるのは26話です。
さすがに全話見るとなると大変かもしれないので、この一話見るだけでも理解が深まると思います。
参照・引用させていただいたのはこちらのサイト↑
自刃した白虎隊の生き残り
これまで説明した白虎隊の自刃ですが、
実はこの部隊の中で生き残った方がいるのです。
この方がいたおかげで、現在のわたしたちが白虎隊の悲劇を知ることができるわけです。
その方は、名前を飯沼貞吉さんとおっしゃいます。
彼は、白虎隊士中二番隊の仲間とともに飯盛山で自刃しますが、なんと蘇生。
しかし、当時は自刃を遂げられなかったのは武士として「恥」という考え方でした。
彼は死ぬ事ができなかった悔恨の念から二度と会津の地を踏む事はなかった。
こんなエピソードもあるそうです。
日清戦争に従軍中、危険だからとピストルを持参するよう促した者に、「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と言って笑った
かつての仲間たちを心の中に宿し、
明治という新時代を生き抜いた飯沼貞吉。
彼のお墓は仙台にありますが、1957年、飯盛山に墓碑が建てられました。
仲間たちとの再会を果たしたのは、89年という歳月が経ってからでした。
現地に行く重要さ
今回の福島旅行では、
これまでネットやテレビで見ていた場所に実際に足を運ぶことができました。
現地は、画面からではわからない言葉、というか伝える力を持っていました。
「聖地巡礼」という言葉がありますが、
私は今回の旅行でその気持ちが分かったような気がします。
現地に行くって大事!