河井継之助記念館行ってきた!幕末長岡藩を率いた武士の中の武士
こんにちは!
突然ですが、「河井継之助記念館」に行ってきました。
今年は長岡藩開府400年ということで、この機会に行けて本当に良かったです。
たまたまボランティアガイドさんのお話を聞くことができたのもラッキーでした。ガイドさん本当にありがとうございました!
河井継之助とは?「東の坂本龍馬」?
河井継之助は文政10年(1827)1月1日、長岡藩の中級藩士・河井代右衛門の長男として長岡城下に生まれました。
継之助は、年長者の理不尽な脅しにも屈しない意思の強い子供であったと伝えられています。
継之助は、封建社会の古びた秩序を一掃し、人心の刷新を図りました。
1868年(慶応4年)8月16日午後8時頃、会津領塩沢村(現在の福島県只見町)にて41年間の波乱の生涯に幕を下ろしました。
彼は幕末を生き、その激動の時代に揉まれながらも最後まで武士として生きた長岡藩士です。お世辞にも裕福と言えるような家の出身ではありませんが、その類まれなる先見性や物怖じしない姿勢で、次々と重要な役目を担っていくことになります。
この時代には珍しくブーツを履いていたり、藩の体制を古臭いと一蹴したり、「東の坂本龍馬」などと言われることもあるようです。
幕末の長岡藩にいたということで、ご存知のように「戊辰戦争」にも巻き込まれております。彼はもともと戦争には反対で、あくまで中立的な立場を取ろうとしたようですが、その思いも新政府側によって崩され、戦の道へと進んでいってしまうことになります。
「北越戊辰戦争」、「奥羽越列藩同盟」という結びつき
鳥羽・伏見の戦いを機に始まってしまった「戊辰戦争」。新しい日本をつくろうとした新政府側と、天皇のために戦った旧幕府側との争いですが、この戦いは京都、関東、そして東北へと戦いの舞台を移していきます。「北越戊辰戦争」とは、この戦いのなかでも特に、現在の新潟県で起こった戦争のことを指します。
河井継之助は長岡藩の軍事総督として、なんとか戦争を避けられないかと考え、新幕府側と話し合いの席を設けるなど奔走します。この話し合いを「小千谷会談」と言いますが、彼の願いもむなしく、これは30分もしないうちに切り上げられてしまったそうです。
この後、長岡藩も「奥羽越列藩同盟」に加盟。
奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で[1]、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)・蝦夷地(北海道)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、薩長中心の新政府の圧力に対抗するために結成された。
そして旧幕府側として戦争に参加することになりました。
戦況を考えこの同盟から抜けた藩もいくつかありますが、長岡藩は、「朝敵」とされた会津藩を見捨てることなく、共に戦いました。
河井継之助記念館を訪れて
こちらの記念館は館内が撮影禁止だったので、その外観と、裏にあった長岡城の写真のみ撮ってきました。
最後に
河井継之助というと、あまりピンとこない方も実は多いのではないかと思います。かく言う私も、この記念館を訪れるまではあまりくわしく知りませんでした。ですが、「河井継之助記念館」の展示は非常にわかりやすく、彼のことはもちろん、当時の長岡、当時の日本を知ることができます。
長岡を訪れた際にはぜひ立ち寄ってみてほしい施設です。